三陸ラビリンス気仙沼(弁護士東忠宏)

気仙沼の弁護士東が,弁護士活動において考えたことなどを書いています。毎週日曜日に更新記事をアップするのを、目標とします。

成年被後見人の意思の尊重とは

現代に生まれ変わったゴッホ成年後見人に就いた,とする。

 

彼は,乏しい障害者年金の大半を,キャンバス・油絵の具に用いて,日々の食費にもこと欠くさまである。

あげくに売春婦を家に呼び寄せたり,人前で大声を出して暴れるなどする町の厄介者で,社会福祉協議会を通じて市長申立てとなって,私が成年後見人になったのである。

 

彼の絵画が売れたことは一回もないし,(今生では)正規の美術教育すら受けていないので,まともな評価がされるはずがない。

展覧会に出せるレベルですらない,と看做されているのだ。

 

今生の彼の絵画が評価されるのは,彼も,私も,私の家族も皆死に絶えてから50年後のことである。

 

その彼の絵画は,22世紀の絵画の方向性を決定づけるとてつもないものであった。

そして,彼の伝記には,

「中年までは飲食を忘れて精力的に絵画を描いたが,それ以降,当時の法制度である成年後見人の就任により,収入を食費・治療費などバランスよく使うよう執拗な指導がなされ,資材が購入できなくなり絵画を描くことは殆どできなくなった。

21世紀の,個人の情熱を尊重しない法制度の犠牲になったと言えよう。

後世に,彼の中年以降の作品が殆ど全く存しないのは人類の損失である。」として,

この芸術に理解のない・時代への先覚性を欠く哀れな歴史の敗北者である成年後見人の実名が,怒りと共に書かれている。

この弁護士の子孫らは,50年以上前に亡くなった曾祖父の頭の固さを軽蔑し,そのような者の子孫であることを恥じている。

 

さて,私は,当時の裁判所の監督の下,収支を管理するという後見人として当然の仕事をしたまでだから,

誰しも安定的な生活・心情で生活したいのが本意のはずだから,

一見,芸術的衝動に身を焦がすゴッホの転生者も,実は自己の情熱に疲れ気味であり,天才に自分自身を夜ごと貫かれることにしんどい気持ちもあったのだから,

死後にボロクソに言われても,何も気にしなくていいのだろうか。

 

これは,絵画を描くという,お行儀のいい話しである。

しかしもっと言えば,被後見人が,深夜に踊り狂ったり,行きずりの異性と交渉を持ったり,群婚を主張してグループで生活したりする,

そして,100年後,そのようなライフスタイルが一定の支持を集め,振り返れば,100年前からの民衆の草の根運動が,そのようなライフスタイルの定着を後押ししたのであり,抑制者としての当時の「社会の良識」(精神病とされた者には公権力が様々な名目の介入者を付けて,社会の良識の範囲で生活するよう強要した)が存した,と描かれることもあろう。

 

じゃ,あらゆる社会への異議申立て・表現活動は,未来社会がどうなるか分からない・どう評価されるか分からない以上,後見人は立ち入るべきではないのか。

我々は現代社会に生きている,しかし,未来を見据えない人間の活動には理想はない。

 

ことに,天才というのは,ある種の過剰に生きる者(と私は思っている。)だから,なおのこと難しい。

私が少年事件をあまり好きではないのは,結局,過剰な者を鋳型にはめ込む活動に見えてしまうのだよな。

 

この話,しばらくしたら続けます。

 

 

 

 

ふと気づいたことなど

長男の様子を見て,自身を振り返ること。

 

私は,小学生から高校生にかけて,

「周囲には,年上の人たちにチヤホヤされる人もいるのに,私だけなんとなく阻害されている感じがする。」

と感じながら過ごしていたものだった。

私なりには普通に過ごしていたので,不公平に思う気味もあった。

 

先日,珍しく長男の剣道の練習を見た。

この長男というのは,小4だが,ほとんど私そのものというくらいそっくりである。

 

で,長男の様子を見て,つくづく,私の上記疑問が氷解した。

 

長男の,けだるそうな,ドテッとした感じ,はつらつとした・敏捷なものが何も感じられない様子。

それが,反対に,生意気そうだとか,反抗の気味があっていいとか,そういう感じですらない。

 

私もあんな感じで,だから,年上の方々から全く好かれもしなかったのだろう。

 

いやはや,息子よ,先は長い。

 

私は司法修習生になって,また弁護士になって驚いたのが,

「東くんは礼儀正しい」とえらく先輩方褒めて下すって,

多くの先輩方があれやこれやと教えてくれたことだ。

そう,そんなドテッとした私でも,私ですらも,法曹ではまだマシな方で,何と!可愛げがあって見えたのだろう。

 

 

 

もう1話。

 

市内の寿司屋で,満足するまで食べて飲み,支払って店を出る。

駐車場に出て,連れ合いの車の準備を待っている。

すると,店の大将も出てきて,タバコを吹かす。

私も大将の側に行って,ちょっと雑談したりなどする。

 

満足した私と,それを提供した大将が煙草を吸いながら,すこし歓談。

 

これって,なにかに似ている感じがする。

「お山がけ」(重要無形民俗文化財)覚書き

昨日の「お山がけ」。

なんと,参加した二男の写真が載ったので,嬉しいついでに書いておく。

(すぐ後の,黄色い帽子の男性は,兵庫県明石市から来た,我が父親)

www.kahoku.co.jp

指定文化財|重要無形民俗文化財|羽田のお山がけ - 宮城県公式ウェブサイト

羽田のお山がけ

重要無形民俗文化財(風俗慣習)|気仙沼市

 羽田のお山がけは、7歳の男児が上羽田地内にある羽田山に登拝し無事成長を祈願する行事である。このお山がけは「親子お山をかけるな」といわれており、付添いの男性は子供の父親ではなく、祖父や親戚の男性がつとめることとな,ている。この行事の参加者は気仙沼市内はもとより、唐桑町本吉町などからもみられ、広範囲に及んでいる。
 お山がけを無事済ませると男児を中心に、親戚や近所の人を招いてオフルマイを行い、お山がけが無事済んだことを披露する。
 この行事は、男児の無事成長を祈願して行われるもので、その参加者が広範囲に及ぶことや、またお山がけをしないものは、一人前の男とみなされず、沖のりもさせられないという所もあるなど、子どもが成長過程において必ず経験しなけれぱ成らない儀礼と考えられて、現在も盛んに行われている。

 

とある。

www.weblio.jp

にも詳細があり,子どもが多かった時代の気仙沼を偲ばせる。

 

以下,備忘。

1 鉢巻き・オイズル(背中に付ける白い布)・竹の杖(先端は白い布で巻く)は,神社で借りる。自前で準備してもよい。

2 9:00の朝一組参加が,やはりよい。駐車場が混むので,8:30までには着きたい。

3 およそ1時間15分程度の行程。

待つ者らは,10時過ぎにも,階段を上って迎えに行けばよい。これも結構きつい。災難に「遭わない」とのことで「あわ餅」を売っている。

4 その後,餅薪などを経て,11時過ぎに帰るとして,帰ったらお振る舞いである。

 

いつか,孫の祖父として,再び羽田神社に行く日があるだろうことを期待して書き付けておく。

続・気仙沼司法小史(畠山郁朗判事)

先日,「官報検索サービス」を申し込んだので,一挙,

「裁判所気仙沼支部」(地裁・家裁の趣旨)

志津川簡易裁判所」「裁判所志津川出張所」(既に廃止)

で,検索してみた。

 

前者は,地方と言えども8000件超あった。

が,読んでみて面白かった。

戦後間もない時期の,失踪宣告の届出先としての裁判所時代のこと,

1頁で数年分が表示できる牧歌的時代,

昭和末期より徐々に,破産裁判所としての役割が増えていること,

(1頁で20件なので,全体で400頁ほどだが,昭和は最初の100頁くらい)

各弁護士の当時の事務所や取り組み,

もちろん企業の趨勢も分かる。

数年に一度の割合で,積極的に限定承認にもトライされているのも面白い。

 

一部無罪があったことは知っているが,無罪公告は見つけられなかった。

自分が当地に来た後の,占める割合なんかも,なんとなく分かる。

 

そして,「畠山郁朗」判事の取り組みも,なんとなくは分かった。

彼が,石巻旭川などを経て志津川にいたり,気仙沼で10年に亘って尽力され,後に古川,少し東京なども行って仙台で定年まで勤められた。

弁護士も10年ほどされたようだ。

志津川簡裁を締める間際の,昭和60年に志津川出張所で相続財産管理人をしたのも,その縁なのだろう。

褒賞は2度か,弁護士登録抹消公告を見たときは,少し胸打たれるものがあった。

この人についても,調べてみたいものだ。

 

続・気仙沼司法小史

近時,必要あって「官報検索サービス」を申し込んだ。

https://search.npb.go.jp/kanpou/

 

いつまでも続けるわけではないので,ともかく「気仙沼」「志津川」に関するデータを拾い尽くすことにした。

ある個人が○○した時期とか,法人が○○した時期とか,それらは法的にいかなる状態だったのか,事実上に過ぎないのか,正確に知りたいことはいくらであるのですよね。

 

で,その副産物。

先日の,仙台地方裁判所気仙沼支部に赴任した裁判官の話の続きです。

 

不明~         昭和24年1月25日 松本晃平

昭和26年10月16日~昭和35年3月31日 畠山郁朗

昭和35年 4月 1日~昭和38年4月 8日 遠藤昌義

 

ではないでしょうか。

ではないでしょうか,というのは,松本判事の終期,畠山判事の始期,遠藤判事の始期を見つけたので,上記のように推測したのです。

 

これによると,いかにも畠山判事の任期が長すぎます(約10年!)が,しかし,始期は官報から確実です。

昭和32年2月14日判決労働関係民事裁判例集8巻1号129頁にも気仙沼支部裁判官として名前が出ていますから,ともかく任期は長かったのでしょう。

ちなみに,古川支部判事として,昭和38年2月20日判決家裁月報15巻6号127頁というのもあるようです。

松山事件の第一次再審の古川支部裁判長もしたようですが,ダメだったようですね。

 

松本晃平判事は,今回初めて知りましたが,裁判例集を見ても,気仙沼から転出された後の活躍は分かりますが,気仙沼時代はよく分かりませんでした。

 

 

気仙沼司法小史(構想編)

気仙沼司法小史〕
遂に,全裁判官経歴総覧から拾った。

今まで,やろうやろうと思いつつ,面倒でできなかったのだが,受任事件において古い判決が提出され,それで裁判官の名前が分かって一挙に進んだのだ。

 

気仙沼に赴任した裁判官は以下のとおり。
重複・空白期間があるが,理由は不明。
(これ以前は不明。昭和32年2月14日判決労働関係民事裁判例集8巻1号129頁に「気仙沼支部裁判官 畠山郁朗」とあるが,高輪期以前の人なのだろうか。)

① 柳澤千昭(5期。s38.4-s40.3)
② 竪山眞一(8期。s40.4-s42.3)
③ 横田安弘(11期。s42.6-s44.8)
④ 柴田保幸(13期。s44.4-s46.3)
⑤ 石井義明(13期。s46.4-s48.3)
⑥ 笠井昇 (16期。s48.4-s50.3)
⑦ 赤塚信雄(19期。s50.4-s52.3)
⑧ 清水信雄(22期。s52.4-s54.3)
⑨ 羽渕清司(22期。s54.4-s57.3)
⑩ 須藤浩克(21期。s57.4-s60.3)
⑪ 原田卓 (29期。s60.4-s63.3)
⑫ 片瀬敏寿(31期。s63.4-H3.3)
⑬ 夏井高人(35期。H3.4-H6.3)
⑭ 今井攻 (37期。H6.4-H9.3)
⑮ 加藤学 (41期。H9.4-H12.3)
⑯ 畑山靖 (43期。H12.4-H15.3)
⑰ 森鍵一 (49期。H15.4-H18.3)
⑱ 板野俊哉(50期。H18.4-H21.3)
⑲ 西村康夫(53期。H21.4-H24.3)
⑳ 一原友彦(55期。H24.4-H27.3)
㉑  下和弘 (57期。H27.4-)

昭和ー平成初期までについて,地方司法史として,なんとか冊子くらいにまとめたいものだと妄想したりする。
聴取りを中心に。

そうすると,横田さんは先日初めてご連絡したところ,81歳とのことで,あまりのんびりしていられない気もする(失礼)。


弁護士側としては,昭和22年から昭和46年まで活動された,
及川憲一郎のご子息・及川憲夫(現公証人@神奈川県溝ノ口)さんからの聴取りを欠かすことはできないだろう。
書記官経験者で,近隣にいる方もいる。
長年,調停員として携わっている方もいる。

しかし,当地の小笠原弁護士(14期)は,昭和42年以来,ずっと活動されていて,こう振り返るとすごいね,,,

サンマ初水揚げ・気仙沼

今朝,気仙沼港で,今季初のサンマの水揚げがあったそうだ。

 

私が家庭の食卓で一番好きなのは,もう少し寒い季節(10月初旬か)に,

・ 秋刀魚の塩焼き

・ 秋刀魚の刺身

・ おでん

・ 秋刀魚のつみれ汁

などを並べ,最初は少しだけビール,あとは熱燗で過ごす,というものだ。

 

上記メニューだと,おでんだけでもよさそうだが,焼き物として秋刀魚の塩焼きくらい並べてもいいだろうし,それなら,刺身も少々,,,ということで,ちょっと豪華なメニューを思い至った次第。

 

秋刀魚の刺身を食べる度,初めて気仙沼に来た際,O先生がご馳走してくれたことを思い出す。

青魚で,こんな旨い刺身があるのかと,本当にびっくりした。

(当時は,関西では,ちょっとした料理屋がようやく秋刀魚の刺身を出すことがある,という状況だった。それとて,全く大した味ではない。)

 

以降,あの秋刀魚の脂のうまさに惹かれ,ことあるごとに注文しているのだが(秋刀魚の刺身は,上記に反するが,スーパーのパックでは美味しくない。上記も味を見る程度でいいのだ。),年々,あの最初の感動から遠ざかっている。

旨いものは食べ付けるとすぐ慣れて,美味しいかどうかが分からなくなってくるのだ。

が,舌は恐ろしいもので,不味いものを食べると,途端に不味いということだけはよく分かる(笑)。

 

今年は,大いに秋刀魚を食べてやろうと思う。