三陸ラビリンス気仙沼(弁護士東忠宏)

気仙沼の弁護士東が,弁護士活動において考えたことなどを書いています。毎週日曜日に更新記事をアップするのを、目標とします。

「汽車ポッポ判事の鉄道と戦争」のことなど

ゆたかはじめ著の標題の書籍を読了。

筆者は,東京高裁長官を平成初期に定年退官された方。

 

驚いたのが,昭和37年に秋田駅の一日駅長をされたとのことだが,その際,出発の指示,お客さんへの対応,信号の操作,詰め所から駅弁屋まで廻るなど,本当に「駅長」の仕事を一日していること。

もちろん,当時も現職の判事だった。

 

実は,私も気仙沼線が,私の誕生日と同じ昭和52年12月11日に全線開通したという奇縁で,平成19年の30周年の際(=私も30歳だった),気仙沼駅の一日駅長を勤めたことがあるのだけれど,制服を着て本物の駅長と電車を1本見送る程度のことで,あっという間にお役御免となったのだった。

 

ともあれ,標題の著書は,大変趣味のよい判事の人生が,素敵に描かれていた。

(一方,裁判官らしく,真実発見ということを,いかに被告人らに騙されないか・嘘を見抜くかということと捉える記述が散見され,残念に思ったり,彼らはそう考えているのだよなと再確認させられたり)

 

今,大竹たかし「裁判官の書架」を少しずつ読んでいる。

まだ序盤だけれど,もう何と言うか,昭和の正しいリベラルおじさん像がひしひしと伝わってくる。

思えば,私が子どもの頃,こうしたものの考え方こそスタンダードだったのに,と思わされたり,それがこうして残っている司法にまだ希望を持ったり。

 

そのような司法が残っている,と私に思わせたのは,もちろん,そのようなことが書かれた当該書籍を読んだからだけれど(正直言って,法律実務をしていて,高裁の部総括クラスが,どのような思想・背景をもっているかなんて,なかなか伝わってこない。),そのことについて,更にしつこく考えた。

 

すなわち,戦前の社会の様子を描いた随筆などを読みつけていると,どうしても,旧制高校・帝大を卒業した人の観点から,かつての社会を俯瞰することになってしまいがちである。

彼らが,今も流通市場に乗る多数の随筆などを残し,庶民は(そのような市場流通性,例えば文庫化されるような)文字を殆ど残せなかったからである。

 

その点で,東京高裁部総括(また長官)を務めた方々の本を読んで,裁判官の良識に心打たれたり,司法に希望を持つのもいいけれど,もっと目立たない,けれども庶民のために尽力したり,あるいは生活者としての法曹の姿を捉えたり,その前提として何かに残す意義はあるのだろう。

(そう思うと野島梨恵先生「私の愛すべき依頼者たち」はよかった。)

 

ここまで考えていたところ,そうすると各単位会に残っているだろう歴代の会報,それに掲載されている職務や生活の模様を織込んだ投稿,あれをなんとかピックアップしたものを面白く整理できたら,,,と思わずにいられない。