保険金訴訟(モラルリスク事案)の思い出①
少し前の,火災保険金訴訟の経過を書きます。
実は,書くことについて依頼者の了解は得ているのですが,適宜改変します。
事案はこんな感じです。
依頼者は,某年某月,自宅の火災に遭いました(全焼)。
当然,自宅再建のため,火災保険金を当てにするのですが,担当の調査会社が2度程来ても,なかなか支払へと進まない。
で,「支払いません。」との保険会社代理人の弁護士名の通知が来る。
明確な理由は書かれず。
この辺りで,私どもに相談があり受任し,代理人として,とりあえず不払いの理由の釈明を求めるのですが,回答の拒絶。
提訴予告通知に基づく当事者照会として,改めて不払い理由を示すよう求めても同じ。
やむなく保険金訴訟+慰謝料(提訴予告通知に基づく当事者照会の拒絶を,保険契約に付随する説明義務違反・民訴法違反の不法行為とした)で提訴。
形式的な答弁書があり,なにやら「モラルリスク」(という言葉を,私はこの書面で初めて知った。)だから払わない,保険金の受領歴,資産収入状況等を明らかにせよと述べてくる。
〔第1回期日〕
ここにおいて,私は,某師匠(当初登録時,同じ事務所に弁護士任官から戻られた方)の教えのとおり,法の予定していない類型の釈明であるとして拒絶。
請求原因(保険契約の締結,火災による全焼)は立証しているのだから,抗弁を主張しないのなら早く結審せよ,と述べた。
〔第2回期日〕
そうしたところ,どどんと出てきたのが,被告の第1準備書面,対応する書証は,焼け跡から灯油成分が「大量」に検出されたというものであった,,,
さあ,これに,どう対抗したらいいのか,我々の悩み・奔走が始まった,,,
何しろ,同種訴訟をやったことが無く,本当に,なぜ払わないのか,さっぱり分からないまま訴訟になったんだから。
(今にして思えば,不払い理由を訴訟前に開示しないのも,保険会社側なりの戦略の一環ともいえるのです。交渉事件なら時間は任意取れますが,訴訟になってしまうと期日間という締切りの中で,準備しなくちゃいけない。)
さぁ,俺は,同種訴訟を年10件超もやっているという保険会社子飼いの代理人らに,どう対抗するのか。
それは次回を待て!。
男性専用車両がない理由
たまに東京に行くと,電車なりエレベーターで,人と密着しなければならないことの連続で,まぁ大変不快である。
私のように田舎で暮らしていると,車社会であるから,見ず知らずの人ばかり押し込まれる空間など,日常,全く経験していないのだ。
パーソナルスペース浸食への耐性が違う。
で,現地調査等のために電車を乗り継ぐのだが,満員電車で側に女性がいると,何かあっても困ると離れるようにしている。
大阪時代,痴漢えん罪を主張した刑事事件の弁護をしたことがあり,かなり一生懸命したつもりだが,その際の勉強や経験では,結論的に,どうしようもなくなる見通しなのだ。
あの時は,それこそ,毎朝4時に起きて移動して,関西私鉄某路線の「犯行」時刻の電車に乗り込み,車内の様子をビデオ撮影すること3日連続とか,まぁ力は入ってた。
(某著名刑事弁護人曰く,周防正行「それでもボクはやってない」のおかげで,ともかく電車内の痴漢否認だけは,裁判所も批判を恐れて勾留却下が認められやすくなったそうだ。)
否認の場合の起訴率は,その当時よりは,まだマシになっているかも知れないが。
そうした不安を受けてだろう「男性専用車両」を求める声がある。
(「女性専用車両」があることへの対抗的・反発的な気持ちからの導入論もあるだろうが,ここでは痴漢えん罪被害を避けるためを主目的にした導入論への批評とする。)
もちろん,気持ちは分かる。
日常の通勤で,ある日,その後の人生が暗転する出来事に巻き込まれたら,,,と思うと恐怖感すら覚えるだろう(私も,東京の電車で,チラッとそんなことを思ったりする。)。
でも,痴漢えん罪被害を避けるための「男性専用車両」なんて導入されるはずがない。
1 鉄道各社が,「痴漢えん罪」なる警察・検察への不信・批判を前提にした公共サービスを提供することを,社会に示せるはずないこと。
警察・検察は,真犯人を確実に捕まえるはずであり,その誤りを恐れて,集団で避難するスペースなど作るのは,警察・検察への挑戦行為と受取られるだろう(と,鉄道各社は思うだろう。)。
(警察・検察は,彼らの論理では,「痴漢えん罪」など存せず,それは,裁判所の被告人への軽信とか,たまたまの証拠不足とか,被害者の動揺によって証言がうまくできなかったことによる無罪があるに過ぎないと考えるしかないだろう。あるいは,被害者が積極的に嘘を言っていたとしても,それは当該「被害者」が悪い・見抜かない裁判所や無力な弁護人も共犯であって,警察・検察による冤罪ではないと思っているだろう。)
2 導入後,諸外国の方に尋ねられたら,まさか,痴漢えん罪被害を避けるために,このような男性専用車両が存するのだ,我々国民は,司法を信用していないのだ,それを受けて鉄道各社は導入したのだ,などとは言えないだろう。
その説明には,人質司法とか,推定無罪の現状とか,逮捕・起訴と解雇とかも触れなくてはならなくなる。
どうやら,男性専用車両は,冤罪被害という体制側からすれば存在しないはずの被害を前提にする・そのような被害への批評となるもので,認められないのだ。
(痴漢えん罪無罪が年に数件出るくらいなら,突発的事故であって,見過ごすこともできるが,毎日の電車に,痴漢えん罪を前提にしたシステムがあることは認められない。)
(しばらく前にFBに投稿した短文を大幅に加筆した。)
補足:「痴漢えん罪保険」なるものも,予め司法への不信を一前提にしている。
ここでは,鉄道各社が,自社のサービスによって,冤罪を作り出す一因となることを積極的に認めることはできないことの相違と理解したらどうか。
大道寺将司さんと菅家さん
「もう一人の隣人は北関東のほうで幼女を連れ出して殺した容疑で、一・二審とも無期刑の判決を受けた人。新聞報道によると、彼は冤罪を訴えているようです。でも、ぼくは彼の事件については詳細を知りません。ですから、彼が実際に幼女を殺したのか,冤罪なのか,判断する材料もありません。ただ、近くで接していると、警察官や検察官から、「おまえが殺したんだろう」と決めつけられたら、彼が反論などできない人であることはわかります。気が小さくて、自己主張するような人ではないからです。以前、ぼくは彼をかなりの難聴者だと思ったことがあります。というのは、看守や雑役囚が彼に話しかける時、一度では済まず、必ず二度三度、同じことを繰り返すからです。しかし、一度言っただけでは彼にはなかなか通じない、つまり彼が理解するのに時間がかかるからだということがわかりました。弁護人と意思疎通ができているのか疑わしいくらいですが、冤罪ならしっかりと闘ってほしいと思います。」
(一九九六年十月三一日)
「死刑確定中 大道寺将司」を再読して発見。
■
この年末年始に読んで,大変感心しました。
多分,この数年来の読書の中で,一番くらいに胸打たれたと思います。
この数年というと,丸谷・山口ばかり読みふけり,近時は池波も読んだりと,そんな中での話しです。
私がずっと抱えていて,友達やイソ弁にしつこく話して辟易されていたであろう,
1 西洋は世界を制したところ,それがたまたま人権思想を持っていたと考えるべきなのか,あるいは,人権思想を持っていたからこそ,世界を制したと考えてよいのか
(→近代戦争の戦闘員には基本的教育が前提で,また,近代的兵器を均一な質で大量に作る必要がある。それらの前提には,大量消費社会〔が前提とする社会の構成員や社会システム〕が必要で,そのためには共同体を破棄して,国民国家を作る必要があって,,,)
2 1に関し,ヨーロッパの側にたまたまアメリカ大陸があったから,新市場や奴隷でもって産業が発達したのか。
中国とすれば,たまたま側にオーストラリアがなかったせいで,主権国家とか国境線とかいう西洋のルールを押し付けられているのか。
などということについて,(もちろん,私のような愚問が立てられているわけではありませんが)それへの答えとなる見事な論述があります。
などと書くと,私が法律家としての素養に全く欠ける物の考え方をしているようですが。
(注:上記のような問題設定が書かれているのではありません。人権なんて一言も触れた本ではないのです。あくまで,本に書いてあることを敷衍すると,私なりの疑問の答えに繋がる,ということです。)
私は,ブームになる以前の内田樹さんの本が好きで,そこで初めて「互酬」という概念の重要さを知りましたが,それの位置づけがよく分かっていませんでした。
それが,また「周辺」とかを大学の夏期集中講座で聴いたことを,どうやら思い出し,ああ,そういう議論であったのかと,今さらながら思いました。
まぁ,哲学というのは,なんでも後付けで説明するためのものですが,この本を踏まえると,市場と国家の関係とか,民主主義・主権の関係とか,なにやら世の中の議論(議論する意義が)が全く虚しくなるような気にもなります。
父の不在・父の否認
今朝は,少し雪が降るなか,子供らと公園へ。
1時間少し,サッカーをして走り回る。
公園は最初,我々親子だけだったのだが,しばらくして近所の子も来て,サッカーに入れてくれと言う(もちろん入ってもらう。)。
私は,子供らに話すとき,なぜか,
・ 俺(私ね)は,タダヒロの双子のダダビロだ,普段は東京で刑事をやっている,今日は本物のタダヒロは俺の東京の家に行っているのだ,
・ お前達の本当の父親は,お前達がごく小さいときに事故で死んだ,俺(ダダビロとはまた違うやつ)は偽の父である,
・ 俺の右手は事故で失われていて,これは精巧な義手である,
・ と言うか,実は俺は人間ではなくてロボットである,
・ 妻との出会いを翻案したのが,あの「シンデレラ」である,
・ 高校生のころ,明石市の乗っ取りを企む,なぞなぞ魔王「ナゾー」にただ一人戦いを挑み,決死のなぞなぞ勝負でどうにか地域を救った(このストーリーは,寝室で不定期に語り継がれている。長すぎて,話しが始まって3年は経つのに,まだ自宅から魔王の城に向かう中途である。),
などという,訳の分からない話を思いつきでしてしまい,
子供らが前の話との矛盾を突く度,いや,実はこういう理由で齟齬はないんだと,また話しをでっち上げる,ということを続けている。
ただ,こうして初めて書きだしてみると,私が子供らに言いたいのは,
どうも「俺は,お前達の父親ではない」ということのようだ。
要は,父親の責任を放擲したいということなのか。あるいは,同じように遊び騒ぎたいということなのか。
振り返ると,物心ついてから,私自身が父親とサッカーでも何でも,遊んだ記憶ってないな。
まぁ,子どもだけで連れ立って遊べた環境と,当地では親が車に乗せて連れ出さなければならないので,だいぶ状況が違うが。
受任の幅と弁護士の姿勢
よくイソ弁らに言っていることだが,,,
どう法的に整理したものか,よくは分からないが,ともかく不当な目に遭っているということ・何らかの請求をしてしかるべきだ,という相談者が来る。
よく分からないというのは,相談者の表現力の問題もあるし,相談者が関わりないところの事実関係が把握できないためなのかも知れない。
ともかく,聞いている当方(弁護士)としては,よくは分からないが,自分達が対処する領域に属する問題のようだ。
で,どうするか。受任するのか。
ここで,当該依頼者が,まず付き合っていけそうな方であれば,よくは分からないけれど,事件を進める中でなんとかなるだろうと,受任することになる。
反対に,手続の見通しとか,金銭回収に細かく意見を言うような人なら,ちょっと受任しにくいだろう。
で,この種の,当初は見通しがよく分からない事件が,徐々に分かってきて,意外な成果を挙げたりする。
あるいは,私の場合だが,依頼者が事実関係を把握していな類型で,弁護士の調査だけが頼り,という事案の方が,むしろ地力を発揮したりもする。
そうすると,ある程度専門家任せ,という人の方が,結果として権利救済に繋がる,
むしろ口うるさく権利主張をする人の方が,弁護士が敬遠して,その実現に繋がらない,
というパラドックスが起きそうである。
ここで,以上の依頼者の態度・発想からの選別的発想を逆転させ,弁護士側の姿勢を問題にしてみる。
経験を積み,いろんなタイプの人を依頼者としてきた弁護士がいる。
最初,よく分からなくても,徐々に事実関係を把握し,問題点に突き当たれば,その都度,依頼者に説明して適切な方向転換をする。
また,そのように適切な方向転換の協議ができることに自信がある。
あるいは,依頼者をコントロールすることにこだわらない。
そうすると,自然,口うるさい人,独自の考えを貫こうとする人,あるいはお任せ過ぎて連絡対応してくれない人,そういう人も受けることができる。
上記の見方の反対で,当該弁護士こそ,受任して対応できる幅が広ければ広いほど,当然,権利救済の幅が広がる。
様々な依頼者と適切な関係を結ぶことを,平素続けていれば,自然,地域の権利救済に資することができる。